ハイ、ポール。今日も元気?

(会報3号/2002年2月号掲載:2001年のポール・オデット初来日、その衝撃と興奮の日々を綴った随行記。文中肩書は全て当時のもの)

渡辺広孝

先日、プリペイド式の携帯電話を更新した。オデット来日に備え購入したもので、期限は4ヶ月。そう、もう、というか、まだ、というか、4ヶ月経ったとい う実感が湧かない。あの来日期間中が独立して宙に浮いているような認識で、こうして会報を纏めていても、何となく、いまひとつ現実感がないというのが、正直なところだ。モリナーロなどのCD を聴いていると、その感が一層増す。「いくらフランクなアメリカ人とはいえ『タメ口』をきいたり、しょうもない冗談を随分放ってしまったよな。」

とはいえ、日本リュート協会としての初年度の大山を越えることができ(本当はこの会報を仕上げなければ、越えたとは言えないが)、いろいろな成果と数々 の想い出で締めくくり、これからの展望をしっかり持って、次に進んで行かなくてはならない。ここでは、最初の段落のように多少個人的心情的な文章になってしまうかも知れないが、ここに記すことによって、なんとなく「やったように気になっている」自分のフワフワした気持、気分に楔を打っておきたいと思う。


すでに『アントレ』誌に拙文が載り、『現代ギター』誌にも永田理事のインタビューが掲載されたので、重複しないように書こう。

来日前の打ち合せは全てE メールにて行った。一説ではなかなか返事をくれない、掴まり難い相手だと聞いていたのだが、返事が遅かったのはむしろ私の方で、概ねポールからはすぐに返事を貰えた。日本での初コンサートに並々ならぬ期待を持っていることも伝わって来、それはそれで緊張が走るのだった。そして、誤解の無いようにと、慎重に英文を捻り出しているうちに時間は過ぎて行く。

それでも、完璧な準備を整えたとは言えないものの、スケジュールが決まり、来日も近づいてきた。彼はマネージメントが入らずとも、世界中の何処へでもひとりで出向き、ツアーを敢行する。去年のオランダツアーは主催者がレンタカーを用意して、ほぼ毎日行われるコンサートを、自分で各会場まで運転してこなしたそうだし、また、去年の夏のほぼ1ヶ月、ご家族と共に、今度は自前のレンタカーでヨーロッパ各地の音楽祭や講習会を転戦し、コンサートやマスタークラスを行っている。これには兼・家族旅行という面と、ポールの第一の趣味、ワインハンティングへの目論見があったのかも知れないが、日本での約2週間そばにい て、そこには、人間的にたくましい、という以上の、この分野を背負って立つという自負と、連続して素晴らしい結果を出しているという自信に満ちた「ひとり の行動」を感じることができた。演奏家としてどれだけの才能や能力があっても、なかなかビジネスにならない古楽の世界で、ただ、ひとりで切り開いて行くこ との重要性を、私は強く感じた。仕事なのだから、当然といえば当然なことだが、また、「協会」というものの存在と矛盾してしまうように感じられるかも知れないが、小さくともこの世界に仕事として関わるものとしては、もたれ掛かっているような部分があっては先に進まないし、「協会」というのもやはり、ひとり ひとりが基本でかたち作られるものだと思う。今回はそれがいちばん大きく心を動かされたことだった。それにしては、その私自身が未だにグダグダしてしまっているけれど。


いきなり結論めいてしまったが、そこに至るまでは、プレッシャーの連続でもあった。

はたして、上手く進められるだろうか。特に9月11日以降はなるべくその影響を考えないようにすることしか、なすすべも無かった。そして、何とか大丈夫、来日出来る、となると、胸を撫で下ろすのと同時に、日に日に緊張感が増してくる。ただ、頼んでいたプログラムノートが、諦めかけていた来日2日前に思い掛けずというか、ようやっと送られてきたので、最も落ち着かなかったであろうその2日間を翻訳作業(トマス・メイスの引用部分を速攻で翻訳して協力して下さった協会員の兼利琢也さんに感謝!)に没頭することができ、無用な心配で時間を浪費することもなかった。

来日当日は、なんだかんだとドタバタして、気がついてみると、成田空港第2ターミナルの入国出口の前に、車を出してくれた西島協会監事と武蔵野文化事業団の和田さんとともに立っていた。すこしオーバーな表現かも知れないが、これから約2週間、事故のないように、新幹線に乗り遅れないように、何よりもベストな状態で演奏に臨んでもらえるように……と、いろいろな心配事が、気がついてみると、急激に胸に迫っていた。また今まで、講習会や古楽祭に参加して、 レッスンを受けたり、楽器を見てもらったり、カフェテリアで同じテーブルになったり、パーティーで談笑したり、といった関係に留まっていて、今回は長時間の移動など二人でいることも多く、その際果たして話題が持つのだろうか。英語だって危うい。生来楽観的で、でなければ楽器製作などという不安定な道に進んだりもしなかっただろうが、この時ばかりは大悲観論に支配されそうになっていた。そして、飛行機が遅れて到着することはすでに織り込み済みだったものの、 乗っていたはずの便の乗客が全て出てきたと思われる頃から、1 時間近く待ってもポールの姿は見えないのである。武蔵野の和田さんが空港の管理などに連絡をしても埒が明かない。和田さんは、今まで沢山の演奏家を成田まで迎えに来ているけど、何の連絡もなしにこんなに待つことは無かった、と言う。

ここで一瞬、恐ろしく後ろ向きな心境に陥りそうになった。
「このままポールが現れなかったら、どんなにか楽だろう。」
『走れメロス』ではないけれど、一瞬たりともこのような感情が湧いたことに対しては、頬を差し出さなければならないのかも知れない。現実に、本当にそのようなことになれば、その収拾にどれだけ大変な思いをするか分らない。
何を考えているのかと正気に戻ったそのとき、内ポケットの携帯電話が鳴った。ポールにEメールで知らせておいた番号に、入官の職員が掛けて来たものだった。


ビザのトラブルが多少あったものの、それも無事解決し、当人に面と向ってしまうと、悲観論は雲散霧消し、ただただこれから6回ものコンサートが聴けるという愉しみに浸ってしまうという、いつものペースに戻るのだから、やはり相当人間が軽い。

至る所でくり返しているのだが、初日の武蔵野市民文化会館小ホールでのリサイタルは、何度もポールの演奏を聴いている私にとっても、また新たに衝撃を与 えられたものだった。10列目という良い席であったにしろ、500席近い会場で、内声の細かなニュアンスまでが耳元に感じられるのだ。現実に物理的に測定すれば大音量が鳴っている訳では絶対になく、その音色と、表現と……あとは何らかの魔術にかかってしまったような(軽率にこのようなことを口走るのは、本当は嫌なのだが)、実に16 世紀的、ルネサンス的な時間と空間が確かに在った。

コンサートに関して私はひとつミスを犯してしまった。ポールから送られてきたプログラムでは、両プログラムにおいて後半のダウランド、各々1曲目の半音階ファンタジアは、1曲で独立したセクションとするために1 行を空け、またあらためて次の一連の曲の前にダウランドの名を入れていた。私は何の気なしに、名前がダブっているなァ、と一纏めにくっ付けてしまった。 まったくもって、意図の通じない、デリカシーのない行為だった。また、それをチェックしてもらうことも怠っていた。ポールとしては一度拍手で区切って、新たにガリアルドやアルメインで再スタートする予定だったが、印刷されたプログラムを見て、それならそれでこの形で行こう、と切り換えたのだと言う。それを 聞いたのがツアーも終ろうとする頃で、私は真っ青になったが、「1曲だけだとお客さんも戸惑ったかも知れないし、このやり方でも構わなかった」と言ってく れ、少しは胸を撫で下ろすことができたけれど、いずれにせよ、ポールの意図が酌めなかった自分が歯痒かった。

ゲネプロはいつも2時間みっちりと。岐阜のクララザールにて。

ゲネプロはいつも2時間みっちりと。岐阜のクララザールにて。


GG サロンのコンサートでは、ゲネプロ中にモリナーロのファンタジアのエンディングは本当に美しい、という話で盛り上がり、プログラムに無い3番や8番を私ひとりの前で最後まで(エンディングの話をして良かった)弾いてくれた。私は間近に見る左手の、全ての方法を駆使して音を繋いで行くさまに釘付けとなってい た。

ただ、この日は本番では途中から室温が上昇し、私の機転も利かず、難曲ぞろいのプログラムをもっと良い条件で弾けるよう、心を砕くべきだった。

神戸の酒心館は、ポールがワイン好きで、一昨年はモンテビデオ(ウルグアイ)の酒蔵でコンサートを行ったと聞いていたので、また、日本に来てから大“大 吟醸”ファンになった彼のためにはうってつけの会場と思われた。担当の岡本さんにも非常に親切に対応していただき、ホールの空間の雰囲気も良く、また、木材で作られており音響そのものはとても良かった。ポールも大変に気に入った様子だったのだが、ただ、高架の高速道路付きの産業道路風なトラック密度の濃い 大通りの近くにあり、会場も音楽専用に設計されたものではないので、遮音が充分でなく、リュートには本当に残念ながら、不向きなホールだった、と言わなくてはならない。遠隔地で実際にチェックしなかったのは失敗であり、もっとリサーチした上で選ぶベきだった。また、集客も芳しくなく、非常に勿体ない、とし か言い様がなかったが、宣伝方法、地方の場合はタイアップ先を必ず見つけることなど、今後の大きな課題を残してしまった。

二つのコンサートに関して主催者側からのマイナス面を書いたが、演奏に関しては悪条件があっても、それをものともしない集中力で、驚異的なプログラムを最後まで圧倒的に弾ききってしまうのだから、あたりまえの話だけれども、本当のプロの姿がそこにはあった。

神戸のコンサートの「利き酒」付休憩後、舞台の袖で私が、さあ、と「のれん」(和風な造りなので)をまくり後半スタート、と思いきや会場脇を夜泣きソバ の軽トラ(おそらく)が例のメロディーを流しながら通過した。ポールが笑いながら、何? と聞いてきたので、「ヌードルベンダー!」と答えると、メロ ディーが遠ざかってから仕切り直しをしたポールは、すぐさまそのネタで会場の笑いを取るのであった。私は後半に入ってしばらく、この辺りに支那ソバのお客 はいないぞ、巡回して来るな、と祈るばかりであった。この日、トラックの音などに私はずっと神経質になっていたが、ポールは(気を使ってくれたのかも知れ なかったが)、ほとんど気に掛けていないようにも見えた。実際、一昨年のアメリカリュート協会の講習会でコンサート会場に使った教会堂は、昼間は近くで工 事をしていたりしたし、夜になっても自動車のクラクションやパトカーのサイレンなどが会場内にも鳴り響いていたことを思い出す。


ツアー中ではそのほか、大阪でのポール念願のフグのフルコース。修学旅行生に混じりながらの京都観光。倉敷の風致地区でのお土産ショッピングやお 気に入りのえびす饅頭。岐阜の最終公演後の打ち上げでの、ワイン+料理談義。などなど、紹介したい逸話も本当にいっぱいあるのだが、ここでは特にお世話に なった方々へのお礼をもって代えさせていただきたい。

神戸、大阪、京都にて多くの時間をとって案内していただいた、協会員の玄僚子さんと小堀聡さん。この直後のフランスでの録音や今年9月のバロックオペラ プロジェクトを控えながら、倉敷のコンサートを主催していただいた、リュート/ガンバ奏者の下山恭正さん。集客のし易さよりも音響の良さを優先して、岐阜 のホールを選んでいただいた、名古屋バロック音楽協会の近藤和彦さん。ご実家が倉敷、転勤先が大垣ということで、今回の列車の乗継ぎなどに知恵を貸してく ださり、倉敷→岐阜の移動にも同行してくれた、協会員の西野潤一さん。本当にお世話になりました。ほかにも数えきれない方々にお力を貸していただきまし た。ここに慎んでお礼申し上げます。

終演後のサイン会には毎回長い列ができた。岐阜のクララザールにて。

終演後のサイン会には毎回長い列ができた。岐阜のクララザールにて。


さて、すべての日程が終り、成田まで送りに行き、ホっと一息、ともかくも無事が何より、などと家に戻りマッタリとしていたら、友人でリュートを弾 く在日アメリカ人のエド・ダブロウさんから電話があった。てっきり、ポールの来日は知っていたものの、都合で来られなかったかと思っていたら、なんと彼は、来ることだけは知っていたが、スケジュールなど細かいことははまったく知らなかった、なんで教えてくれない、E メール1行書けば済むことじゃないか、と電話の向うで怒っている。始めのうちは、それは済まなかった、悪かった、と謝っていたが、本当に悔しいのか、彼の怒りはなかなか収まらない。気持は分るし、連絡をしなかった私がいけないのだろうが、来日20年近くなるのに彼が日本語をちゃんと使ったところを見たことがないぞ、ほとんどインターネットの住人と言うべき彼がこの情報を見過ごしたことの原因もそこにあるんじゃないか、という気になりはじめたところに、
「日本にはリュートソサエティが三つもあるんだってな、どういうことなんだ」
と、彼が八つ当たり気味になってきたので、私もついに、マイルス・デイビスの曲名でもある、
「So what?(それがどうした/だからどうだって言うんだ/だからなんなんだよ)」
を生まれてはじめて口にした(日本には神様だって八百万いるんだぞ、とも言いたかったが、英語にするのが面倒臭かったし、納得もさせられなかっただろうし)。

電話のタイミングが良過ぎて、「この2週間、どれほど気を使い/揉み/張ってきたことか」というような感情が、どうしても湧いてきてしまうのだった。同情して欲しい訳ではなかったが、ちょっとばかり、こちらも疲れが出ていたのかも知れない。(電話の最後にはとりあえずの仲直りはしたけれど)


普段と比べれば、その2週間近くは英語で話す機会が圧倒的に多く、何となく随分と英語が喋れるようになったんじゃないか、と内心、少しだけほくそ 笑んでいたのだったが、今度は『弦楽器フェア』が始まり、国外出展者といろいろと交渉をしたりしなくてはならない。毎年のことだが、今回は少しはマシになっているかと期待していたたら、どうしたことか、なんとも英語が口から出てこない。これではまた元の木阿弥……。

年末になって、学生時代からの友人と呑んだときにこの話をした。レコード会社でジャズのディレクターをやっている彼は、自分にも同じような経験があると、このようなことを言った。
「俺も昔、アメリカのプレーヤーの日本ツアーに同行したりして、戻って来て、物凄く複雑な話も出来たし、もう英会話はバッチリ、ドンと来い、と思っていたところに会社で外国の知らない相手から電話が掛かり、しどろもどろの対応しか出来ずに『何でだ?』と思ったことがある。そこで考えたのは、相当込み入った 話まで出来てしまったのは、相手がこちらのレベルまで下がって喋ってくれているからで、何もこちらの英語力が短期間にそんなに上がる訳じゃあない、ということ。でも肝心なのは、相手がしっかりと信頼してくれないとそういう関係は成り立たないから、つまりは、良い人間関係がそこにはあった、ということだと思うな。」

協会へ、記念のサインをしてもらった。

協会へ、記念のサインをしてもらった。