ポール・オデットインタビュー

きき手:エドワード・ダーブロウ訳:渡辺広孝

(会報8号掲載:インタビューは2003年11月にEメールですべての質問を一括して送る形式で行なわれた。そのため内容が重複していたり、回答を見出せない部分もあるが、そのまま訳出してある。本文中、訳者が補った言葉はブラケット[……]で囲み、敬称は略した。同インタビュー英語版は、アメリカリュート協会会報の2004 年9 月号に掲載されている。)

実は私、1973 年か74 年のマリン大学でのコンサートで弾かれた後に、あなたに話し掛ける機会があったのです。コンサートのレポートを提出する課題が出ていたのですが、私はレポートに、あなたがきっとリュートという楽器を有名にするに違いない、と書きました。あのときのコンサートのことを、今でも覚えていらっしゃいますか?

「そのコンサートのことだったら、良く覚えています。あれは74年ですね。バーゼル留学中だったのですが、マイケル・ロリマーがカリフォルニアでふたつのコンサートを企画してくれ、そのひとつがマリン大学、もうひとつはソノマでのものでした。そのふたつが私のプロとして最初のリュートソロのコンサートだったので、私は演奏する機会を与えてくれたことにたいへん感謝していました。
そのコンサートのすぐ後に、私は親指を内側に入れるフィゲタ奏法に切り替え、74年の夏はその習得に費やしました。そしてその秋になると、私は完全に切り替えることができたのです」

経歴についてお伺いします。育ったところ、ご家族、最初の音楽に関する記憶、などについて。音楽的なご家庭でしたか?

「ワシントンDCで幼少時代を過ごし、それからオハイオ州のコロンバスに移りました。
母はワシントンの国立歌劇団や、そのほかの地方の団体で歌うオペラ歌手でした。母は、私をベビーシッターに任せたりして家に置いて行かず、オペラのリハーサルに連れて行きました。というわけで、私がまだほんのちっちゃな赤ん坊の頃から十代になるまで、私はオペラを纏めていくプロセスやスタンダードなオペラ作品群について、現場で様々な角度から体験する機会に恵まれたのでした。
父もまた熱心な音楽愛好家で、家では一日中レコードやラジオからクラシック音楽が流れていました。父はプロの音楽家になりたかったのですが、祖父の反対によって果たせず、教会の合唱団で歌うことや、可能な限りのコンサートやオペラ公演に足を運ぶことで、音楽への欲求を充たしていました。私たち家族は数えきれない程のコンサートを聴きに行き、いつも音楽について語り合い、またいつも音楽を演奏していました。
4歳上の兄は音楽学で博士号を取りましたが、結局いまはコンピュータプログラミングの仕事に就いています。しかし彼は今でも作曲をし、つねに音楽を聴き続けています。彼の興味は第一に現代音楽で、つまり私たち兄弟はクラシック音楽のレパートリーの両端に行き着いたことになります」

最初の楽器は何でしたか?  それは何歳のときに?クラシックギターを弾くようになるまでに、何かポピュラー系のギターを弾いていましたか?リュートを始める前にどのくらいの期間、ギターを弾いていましたか?

「6 歳でピアノを、7 歳でバイオリンを始めました。
私は、ハイフェッツの弾くブラームス、チャイコフスキー、ベートーベン、プロコフィエフ、そしていちばんのお気に入りだったドボルザークの素晴しいコンチェルトを聴くのが大好きだったので、バイオリニストを目指そうと思っていたのでした。
ところが、63 年にワシントンからコロンバスに移ってからの、コロンバス交響楽団の保守的な団員だった新しいバイオリンの先生は、9歳の子供には音楽ではなく、機械的な練習だけをさせれば良いとの考えをもっていたようでした。私は、少なくとも1曲くらいは音楽を演奏させてもらいたかったのですが、彼女はヴォルフハルトのエチュードを毎日練習することを強制したのです。私の望みは受け入れてもらえず、私はバイオリンをやめ、造反し、独学でエレキギターを始めました。
私は、エリック・クラプトンとジミ・ヘンドリックスの最高のソロのすべてを聴いてコピーし、練習を重ね、そうしてロックバンドに加わりました。それはフロス[Froth=泡]という名のかなりいかしたバンドで、オハイオ州全域から数多くのコンサート依頼を受けました。私はブルースでソロをとることが大好きでしたが、それはクラプトンとBBキングを手本にしていたものでした。
70年になると、家族ぐるみの友人が、クラシックギターを学ぶことによってエレキギターのテクニックが上達する可能性があるかも知れない、と示唆してくれ、私にクリストファー・パークニングの弾くバッハのレコードをくれました。ギターで4声の対位法を弾いているのを聴き、私は驚嘆しました。その友人の示唆はたいへん意味深く、そして私はコロンバスでいちばん優れたギターの先生のもとでレッスンを受け始めることになりました。
私はほとんど一瞬でクラシックギターに夢中になりましたが、私の好きな作品はといえば、ルネサンスリュートの曲の編曲ものでした。「これらの曲はバイタリティーとキャラクターに満ちあふれているけど、16 世紀にはそれがどのように響いていたのだろうか?」と考えたのを覚えています。私はリュートが聴けるレコードを探しに出掛け、ジュリアン・ブリームの『ヨーロッパ宮廷のリュート音楽』を手に入れました。それは最初の一音から、心を奪われる体験で、私は、楽器の音色、音楽の美と優雅、そしてそのレパートリーの多様さによって釘付けにされました。
ギターの先生にリュートを習いたい旨を話したところ、彼は信じられないような面持ちで私を見、頭をかいて、実はまったく弾いていないリュートを持っていて、リュートの楽譜多数と共にそれを私に売ってあげてもよいのだが、と答えたのでした。しかし彼は、このリュートは色々と試みたけれど、どうしてもものにならなかったので弾いていないものでもある、との私への警告も忘れませんでした。
私はこのリュートを買ってすぐ、彼がなぜこの楽器を演奏不能と考えたかが分りました。弦高がフレットの上1インチ[=約25mm]もあるのです。そこで、地元のギター製作家のところに楽器を持って行き、クラシックギターの標準の弦高にリセットするように頼みました。私が修理の終った楽器を家に持ち帰ってみると、それは演奏のできる楽器に生まれ変わっており、それから、ただちにキレゾッティ編の『6 つのルネサンスリュートの小品』を練習し始め、その次のレッスンのときにはキレゾッティを持って行きました」

-

何があなたをリュートに引き寄せましたか?どのようにしてリュート演奏を始めましたか?最初のリュートについて、またそれをどのようにして手に入れたかをお聞かせ下さい。またそれがルネサンスリュートかバロックリュートだったかについても。

「私の最初のリュートは8コースのルネサンスで、地元コロンバスの家具職人が、ヘルマン・ハウザーのデザインに基づいて書かれたクーパーの本に入っていた図面から起こしたものでした。それはとても重い、ギターっぽい楽器でルネサンスリュートとの関連を見い出すのは難しいものではあったけれど、少なくとも私はそれでスタートを切ることはできました。
リュートと呼べる最初の楽器は、1972年にウィスコンシン州ケンブリッジでウィリアム・ドーム[William Daum]によって作られたものです」

あなたがリュートを始めたときは、右手親指を外側に出していましたか、それとも内側に?その経緯について少し語って下さい。

「始めはクラシックギターの標準的なテクニックである、親指を外に出す奏法でした。私は、ジュリアン・ブリームの前半がリュート、後半がギターというコンサートを何回か聴いていたので、そのやり方を真似して両方の楽器を使い、いくつものコンサートで弾きました。
そのころ、トム・ビンクレーが家族ぐるみの友人となり、1971年に私は初めてのリュートのレッスンを受けることになりました。そのとき彼は、走句における親指と人指し指の交互奏法について説明してくれ、それが今日、一般にフィゲタと呼ばれているものだったのです。
73年にバーゼル[・スコラ・カントルム]に留学すると、何人かのほかの学生が爪なしで素晴しい音を出しているのを聞いて驚きました。私も爪を切りましたが、私の爪と肉の離れ際は浅く、指先の肉の部分で弦を弾くというよりも、爪の端が弦を引っ掻くようになってしまうことに気がつきました。
そこで、バーゼルでの私の先生であったオイゲン・ドンボアが、最近ハノーバーのアマチュアのリュート奏者、ジグマー・ザルツブルク[Sigmar Salzburg]によって再発見された親指を中に入れる奏法を試してみたらどうだろうか、と勧めてくれました。ザルツブルクはその奏法をミヒャエル・シェーファーに見せ、シェーファーはバーゼルに来た際に、それを私たちにデモンストレーションしてくれました。私は数カ月後にそれを試みて、それが生理学的に自分にたいへん好く合うものであることが分りました」

あなたは数多くの楽器で録音をされていますが、そのなかに中心といえる楽器があるとお考えですか?あなたが始めのうちはバロックリュートも弾いていたように聞いていますが、バロックリュートでの録音はあるのでしょうか?

「私はルネサンスリュートが私の第一の楽器だと考えています。最も弾いてきた楽器だし、最もなじんだ感触を覚えるのです。
72、3年には私もバロックリュートを持っており、演奏を楽しんでいたのですが、ある事故で壊してしまい、そしてまたそのリュートの製作家は結局修理を放棄してしまいました。というわけで、私はルネサンスリュートとその周辺の楽器に集中することになったのです。それでもバロックリュートを弾く機会は少しはあり、そのなかには84 年に録音したビバルディーのリュートとビオラ・ダ・モーレのためのニ短調のコンチェルトがあります。
昨年[2003 年]私は新しくバロックリュートを購入し、この[04 年の]春にはいくつかのコンサートでそれを弾きました。バッハの録音も来年[05 年]に予定しています」

あなたの主な先生をお教えください。そして、あなたは彼らから何を得ましたか?

「私の主なリュートの先生といえば、トーマス・ビンクレー、オイゲン・ドンボア、そしてパット・オブライエンです。
トムからはフレージング、解釈、およびスタイルに関して多くを学びました。彼は、演奏技術の面では偉大であったとは言えないけれども、往々にして逆になりがちな、音楽的意図が演奏技術を導き出しそれを現実のものとする方法を、実地に教えてくれました。
ドンボアからは自分の演奏を客観的に聴く方法を教わりました。彼はあらゆる音符の音色と強弱を制御すること、そして、あらゆる音符がその次の音といかに関連しているかを演奏者に意識させることに、たいへん熱心でした。
パット・オブライエンは演奏技術と、またどのようにして人間生理学に基づく演奏技術を見い出すかについて私に教えてくれました。いったん生理学を理解すれば、メカニクスを完全なものとする方法は容易に判っていきます。難しいパッセージを演奏する能力が、最も効率的なメカニクスを持つことを前提としているので、パットは、自分自身で技術的問題を解決する方法を、私に実際に授けてくれたのでした」

あなたが留学していた頃のバーゼルは、大変エキサイティングな場所であったと思われます。行かれたのは何年でしたか、またどのくらいの期間留学していましたか?バーゼル後はどうされましたか?

「確かにバーゼルは、私の居た1973 年から76 年の頃、大変エキサイティングなところだったと思います。あのとき一緒だったのは、ホピィ・スミス、ジョルディ・サバール、ブルース・ディッキー、クリストフ・コワン、パオロ・パンドルフォ、ベン・バグビィ、バーバラ・ソーントン、ロバート・ストリジック、キャシー・リデル、ライル・ノードストロム等でした。
私はディプロマを修了するために、あと1 年そこに留まろうと考えていたのですが、そのときイーストマン音楽院から、新設する古楽プログラムを始動するにあたって誘いがあり、私にはその機会を見送る理由は見当たらなかったのです。
その76 年からずっとイーストマンに在職しています」

東京でのエレン・ハーギスとのマスタークラスのひとこま

東京でのエレン・ハーギスとのマスタークラスのひとこま

通常どのくらいの時間練習しますか?練習時間はどのような使い方をしますか?練習時間をどのようしてに作りますか?練習を始めるときはこのやり方で、それに続いては別の取り組み方で、というような決まった手順をお持ちですか?難しいパッセージはどのようにして練習しますか?

「私の練習時間は、ツアーのスケジュールや授業のスケジュールなどによって、日々まちまちなものになっています。日に2時間は時間を見つけるようにはしていますが、それすら叶わない日もしばしばあります。ツアーに出ているときには、ホテルの部屋で6 ~ 8 時間練習するようなことも、たまにはあります。練習時間をより変動の少ないものにしたいと願っているのですが、私のライフスタイルでは実際無理な相談なのです。
私は、たんなる機械的な反復練習よりはむしろ適切なメカニクスを強化することが大事であると強く信じており、練習するときにはつねに効率を高めることに務めています。ここで私が言いたいのは、どんなに困難と思われるパッセージでも、生理学的方法を用いることによって、それを乗り越えるための最も効率的で信頼できる手段を見つけることができると信じている、ということです。いったん適切なメカニクスを見い出せれば、あとは動作をより確かなものにするために、連続して何回もそのパッセージを完全に弾けるよう、仕上げていけばよい。十分な量の練習さえ積めばいずれは上達するだろう、という望みをもって延々と何かを繰り返すという慣習的な練習方法は、それでは不完全なメカニクスを含んだままのものを、たんに繰り返しているのに過ぎないという理由から、効果がありません。
通常、私はまず、ウオーミングアップの基礎的練習、トレモロ、デュエットトレブル[リュート二重奏におけるシングルラインの細かなソロパッセージ]、およびブロークンコンソートのパート[エリザベス朝イギリスの特徴的なアンサンブルにおける、同じくシングルラインの細かなソロパッセージ]から始め、右手をほぐし、なだらかな動きになるようにし、次に様々な左手パターンを使い、指のストレッチと手をリラックスさせることに務めます。
私は全曲を通して弾くことはほとんどなく、それよりも困難なパッセージをその曲から抽出し、そこにある困難の本質が何であるかを見極めるために、一音一音に解体していきます。ゆっくりそのパッセージ全体を弾けるようになるまで、ひとつの音からつぎの音へと本当にゆっくりと到達することだけから始め、次に後戻りしてひとつ前の音を付け加え、その次にまたもう一音付け加え(反対向きの作業になる)、というような練習法を取ることもよくあります。遅いスピードで何回かミスなしで弾くことが確実にできてからでなければ、自分自身にスピードアップの許可を与えることはありません。
和音から和音へと移動する左手の難所に遭遇した場合、私はそれぞれの個々の指の動きを隔離し、各指の「道のり」を別々に練習してみる、という方法を好んでやっています。次にそれを2 本の指でやり、その後別の2 本で、それから3 本に、等々。そのなかで自分の非効率な動きを見つけることができ、各指に関してポイントa からポイントb までの最短コースを発見することもできます」

どのような範囲で各曲に運指を付けますか?運指を書き込みますか?両手の各指の動きに計画を立てますか?

「確かに各曲の運指はじっくりと考えますが、通常私が書き入れるのは例外的な運指の場合だけです。先に説明したように、私は難しいパッセージを克服する際に、各指がどう動いたら良いのかの計画を立てるようにしています。
私には、自然で簡明な運指こそエレガントな表現には欠くことができない、という強い信念があり、それは、ある音がもう1ナノ秒長く保持できるからといって楽な運指を捨てて複雑で困難な運指を採用したとしても、圧力のかかった状況下で弾かれる音は、ほとんどの場合、エレガントさや安定性のないものになってしまうと考えるからです」

ルネサンスリュートのタブラチュアに左手の運指がほとんど書かれていない理由を、その時代の奏者は毎回違うやり方で弾いていたからだ、という意見を聞いたことがあります。ルネサンスリュート音楽の原譜にはとてもわずかな左手の運指しか現れないことに関して、何か見解をお持ちですか?
例えば、ダ・ミラノのファンタジアは、声部の進行を維持するための運指を考えなくてはなりません。私には、当時の奏者が運指を暗記していたのではないか、またはすべての実際に使われていた写本が失われてしまったのではないか、と思えるのですが。
もう一方、デ・ムルシアなどのようなバロックギターのタブラチュアには、多くの左手の運指が書かれ、右手の運指がありません。私には不可思議に思えるのですが。

「私は、当時の奏者がいつも違った運指でパッセージを弾いていた、という説には同意しません。私が思うに、個々の奏者は左手の運指に対しては独自の解決法を持っていたので、トーマス・ロビンソンやノイジドラーなどの少ない例外をのぞいて、運指を印刷することをしなかったのではないか。彼らはよく序文において運指の基本について論じていていますが(ブザール、ヴァイゼル、ノイジドラー等)、各々の奏者にそれぞれのパッセージに関しての決定権を残しています。
実際に使われていた写本はほとんど残っていないと思いますが、当時の最高の奏者は自分の楽曲の多くは即興によって弾いていたはずで、であるならば、曲の骨組みは記憶されていたのではないかとも思われるのです。
サンチャゴ[・デ・ムルシア]が右手の運指に関してとても細心であるのに、左手の運指をあまり気にかけていないのが奇妙であることには、私も同意します。ちょうどモリナーロやテルツィの本に左手の運指が含まれていたなたら、どんなにか役立つだろうと思われるように、サンチャゴがもっと多くの右手の運指を書き残していたなら、より良かったことでしょう。彼らはいつも、最も知りたいと思うことを省いたように思えます!」

どのようにして、そのような速度で弾くことが可能になったのでしょうか?練習にたいへん多くの時間を費やした結果なのか、もしくはおそらく音楽に生気を吹き込もうとした結果なのでしょうか?私は、あなたが両手の働き、その実際の運動について考え抜いてきた、という印象をもっています。

「私は生まれ持った、優れた協調運動性に恵まれていたので、速度について考える必要はほとんどありませんでした。両手で弾かれる小指を使った終止形のトリル(私はこれのための特別な練習法を考えました)のようなある種のパッセージでは、左右の手の協調運動を取り難いことがありますが、ほとんどの場合、速度は私にとって自然に生まれ出て来るものです。それでも、一定の筋肉のフィットネスの必要性(特に歳をとってからは)や、ちょうど運動選手が調子を維持するためにおこなう一連の筋肉の訓練の必要性を信じていて、リュート弾きとして私たちもそうであるべきと思っています。
というわけで、調子を維持するため私にとって有用な、たくさんのデュエットトレブルやコンソートレッスンズのパート(ニューハント・イズ・アップ、キ・パッサ、ムッシューのアルメイン、オクセンフォード伯のマスクなど)を弾きます。ルネサンス時代の教育法は、トレブルから始まり徐々に多くの声部を弾くように組み立てられていたけれど、トレブルに関しては引き続き絶えず訓練をしていました。ほとんどの現代の演奏家がトレブルを、現実的で貴重な教育的ツールとしてでなく、むしろ特別な音楽の分野と考えています。
どのように両手を働かせるかについて考えることに関して、私はそれを明らかにしてくれたパット・オブライエンのおかげだと思っています。彼は、どのようにして左手の緊張を可能な限り解くか、また可能な限り簡潔に動かすかについて私が理解するのを、本当に助けてくれました。
両手の協調運動に関してもうひとつの非常に重要な点は、どのパッセージも持っている音楽的な形状をつねに明確にさせる、ということです。それは、音符の一まとまりが頂点に向ってクレッシェンドし、そこからいったん退却し、そしてまた体勢を整えて次の頂点へと向って行く、というような、方向性をもった有機的な動きを意味します。恒常的なクレッシェンド/デクレッシェンドの形成は、音符を有機的に繋いでいくことを、意味のある手段で助けてくれます。そして、両手が意味のあるかたちを作りあげることができれば、まるで遊園地で木製のアヒルを撃とうとしているかのような、たんなる機械的な方法で両手の協調をはかろうとするより、はるかに好い動きを得ることができます。それは生理学を適切なところに、適切なタイミングで活かす、方向感覚なのです」

東京でのマスタークラス。受講生は坂本龍右さん

東京でのマスタークラス。受講生は坂本龍右さん

演奏中は何を聴き、何を考えていますか?

「作り上げようとしている音の流れ、形状、振舞いおよび表情に耳を傾けています。いかなる状況においても、現れ出て来るものに対応するばかりでなく、聴きたいと思うものを形あるものにする[visualize、この場合は、 audiolize-聴くことのできるものにする-と言うべきだが、そのような単語があるのかどうか]ことが重要なのです。フレーズの方向付けと振る舞いに集中すればするほど、演奏はより焦点の定まった、リラックスしたものになります。正確に演奏しようとか、ミスをしないようにしようとか考え始めれば、演奏はすぐさま慎重で堅苦しいものになってしまいます。
ニコラウス・アーノンクールもかつてこんなことを言っていました。『考えながらの演奏を聞かされることほど、嫌なことはない』」

コンサートやコンサートシリーズの準備はどのようにしていますか? 1 年間にどのくらいの数、演奏をおこないますか?

「弾くレパートリーによって、準備の仕方はおおきく異なります。弾き始めて間もない曲の場合は、各々のフレーズにちょうどぴったりのかたちで音楽的な身振りを吹き込む、最良の方法を見い出すためにたくさんの時間を費やします。
私は問題の本質が何であるかを見つけるために、音楽的な身振りを妨げているどのような技術的な問題にも、とてもとてもゆっくりと[very, very, very slowly]取り組んでいきます。技術的な困難さがなかったなら理想的にはこう響くべきだという、各声部の本来の姿を見い出すために、私はよく各声部をバラバラにして取り組んでいきます。それから、とてもゆっくりと声部をまとめていきますが、3声部あるいは4声部すべての響きを理解できるようになるまでは、同時に弾くのは2声の組み合わせにとどめます。そして、どのパッセージも余裕をもって弾けるテンポであるかどうかをつねに確認しながら、徐々にテンポを上げていきます。大事なのは繰り返し完全な形で練習していくことです。そののち理想の速度に達するまで、テンポをすこしづつ調整していきます。
プログラムのなかから10 か15 のもっとも難しいパッセージを選び出し、それらのパッセージのためだけに30 分ほどを割く、といったこともたびたびします。
もしプログラムのすべてが新しく取り組むものであった場合、私はプログラムを半分に分けて、各々を1 日交代で練習することもあります。それでも難所のトップ10は毎日練習しますが。
平均的な年にはだいたい80 回のコンサート(ソロ、歌の伴奏、通奏低音、指揮など)に出演します」

あなたはメロディーをある種修辞学的ものとして、もしくは抽象的な会話としてとらえますか?私は昔の人が音楽の本質とそれを他の芸術と科学とどう比較したかについて、いくつもの興味深い命題を持っていたと思います。

「ルネサンスとバロックの作曲家はほとんどの場合、確かに修辞的に考えていました。16世紀前半からの演奏法に関する文献には、絶えず音楽と修辞学との関係について言及があります。演説と詩歌におけるルネサンスとバロックの修辞学の理解が、彼らがどのように修辞学を使いこなしたかを理解する際にたいへん役立ちます。
私が高く推奨する4 つの資料は、
1 )ロバート・トフト:『汝の音楽を汝の心にしらべを合わせ』[トーマス・キャンピオンのリュートソングのタイトルからとられた。Robert Toft, Tune thy Musicke to thy Hart](トロント大学出版、1993 年)
2)トフトのイギリスリュート協会のジャーナルに掲載された論文でフランチェスコ・ダ・ミラノのファンタジアにおける修辞法を扱ったもの[ロバート・トフト:『16世紀中期におけるイタリアのリュートファンタジア演奏へのひとつの手引き』/Robert Toft,An Approach to Performing the Mid 16th-Century Italian Lute Fantasia(イギリスリュート協会ジャーナル『ザ・リュート』1985年、パート1)]
3)グレゴリー・バトラーの論文:『バロック舞曲におけるアフェクトの投影』[ Gregory Butler, The projection of affect in BaroqueDance Music](アーリーミュージック誌、1984 年5 月)
4)ディートリック・バーテル:『ムシカ・ポエティカ:ドイツバロック音楽における音楽的修辞法』[Dietrich Bartel, Musica poetica:musical-rhetorical figures in German Baroque music](ネブラスカ大学、1997 年)です。
これらおよび他の多くの資料では、情動の変化が非常に局所的に起こること、ときにはひとつの音から次に移るさいにも起ることが非常に明確にされています。これは歌詞における極めて対照的な言葉の使用と、演奏者が各々の言葉を特徴づけるための、演奏の速度、強弱、音色、アーティキュレーションなどの変化の必要性に対応するものです。
私はこのことについて何年かまえに論文を書いたのですが、引き出しの奥から引っぱり出していつかは出版するべきなのかもしれません。しかし資料からは、 16世紀でさえ、演奏においては瞬間瞬間につねにコントラストをつけるべきである、というかたくなさも感じられます」

いったいどのようにして、そんなに多くの研究をする時間を見つけ出すのですか?あなたはとても多くの、音楽に関する深い知識を持っておられますます。ツアーに出たときなどは多くの論文を読みますか?他の音楽家との会話から多くの情報を収集されますか?どのようにして今のすべての知識を習得することを成し遂げたのですか?

「私はずっと、あらゆる楽曲、あらゆる作曲家、あらゆる手稿譜、あらゆる装飾などに関して、私が調べることができるすべてを知りたいという思いに取り付かれてきました。
新しいレパートリー(例えば17世紀後半のドイツのバロックオペラ)に取り組むときはいつでも、私は主要な一次、二次的資料のすべてに目を通し、その時代の残されている作品のすべてを研究しようと試みます。たとえそのときにひとつの作品しか演奏できないとしても、様式を特徴づけるものの綿密な理解の確証を得るために、周辺のレパートリーすべてに目を通さなくてはなりません。
本や論文はつねに読み、ツアーに出たときは図書館に行き古い資料を調べ、そしてできるかぎり多くの各分野の専門家に会うようにしています。どのような分野であれ、その音楽に関して私よりもはるかに多くの知識と経験を持つ音楽学者がいるので、私はその分野の最高の学者と交流することによって、情報を得るようにつとめています。
あるレパートリーについての知識を得ようとするときの鍵は、一時にひとつのレパートリーだけに焦点を合わせることだと私は思います。
例えば、ダウランドについて可能な限りすべてのことを学びたいと決めたなら、まず彼のパヴァン全曲を、各曲のすべての異稿、合奏版、鍵盤編曲などを含んだすべてをくまなく弾いてみることが第一歩となるかも知れません。何が彼を際立たせているかを正しく認識し確証を得るために、ダウランドの後先の時代のパヴァンにも目を通して下さい。ダウランドやリュート音楽の世界にとどまらず、ホルボーンやバード、トムキンス等の合奏曲のパヴァン、バードやブル、ファーナビー等の鍵盤曲のパヴァンにも、その全体像を知るために足を踏み入れる必要があります。同じことを、ガリアード、アルメイン、ファンタジアなどについてもおこないましょう。それに平行してダウランドの生涯に関する最近に至る研究(ニューグローブ音楽事典第2 版の論文[ダウランドの項目はポール・オデットとピーター・ホールマンの共著]、ポールトン著の伝記など)のすべてを読みましょう。ここで見落としてはならない重要な部分が声楽の影響、特にマレンツィオやクローチェ、ラッスス等によるイタリアのマドリガルからの影響です。そうして、徐々に全体像が浮び上がってきます。これは、ダウランドを少し弾き、フランチェスコも少し、ヴァレも少し、ダルツァも少し、というような、ありがちのあてもなく歩きまわるようなやり方では不可能なことです。
本当にそのレパートリーの世界の住人になりたいなら、他のもので気を散らさないで、そこに焦点を合わせなければなりません。そして興味を持っている次のレパートリーで、同じ過程をたどってください。ゆくゆくは、さまざまなレパートリーに本当に精通することの本質をつかむことになるでしょう」

岡山にて。エレン・ハーギスと

岡山にて。エレン・ハーギスと

お好きな作曲家は?

「作曲家ならすべて、と言ってもいいのですが。私の好きなリュートの作曲家は明白で、ダウランド、フランチェスコ、モリナーロ、アルベール・ド・リップ、バチェラー等。私の好きなリュート以外の作曲家は、モンテヴェルディー、ルイジ・ロッシ、そしてパーセル」

一般的評価が低すぎるとお考えになる作曲家[原文は単数]は?

「リュートの世界では、モリナーロ、テルツィ、バチェラー、メルヒオル・ノイジドラー、カスタルディ等。
リュート以外の世界では、ルイジ・ロッシ、ドメニコ・マツォッキ、マルコ・マラッツォーリ、チプリアーノ・デ・ローレ、ステッファニ、サルトリオ、ラインハルト・カイザー、他多数」

教則本として作られているにもかかわらず、とても難しい曲を載せているものが結構たくさんありますが、それついてはどう思われますか?
一般にリュートやビウエラの音楽はとても高度に、緻密さをもって作られていて、またその多くが技術的に非常に難しいものです。
残っている楽曲の水準の高さや技術的な要求の高さを、昔の人は今や残っていない伝統のなかに生きていたから、あるいは、軽くてやさしい曲の多くは失われてしまったから、と考えるのは当っていますか?

「ルネサンス時代の水準は本当にとても高いものでした。そしてほとんどの練習課題ややさしい教則的な曲は、おそらく『弾き伝え』で教えられたか、あるいは紙切れにササっと書きとめられたものの、すぐにどこかに紛れてしまったのかも知れません。
現代の教則本の問題は、タブラチュア、調弦、演奏姿勢や基本的な右手と左手の技術から、はるばる、装飾法、そしてダウランドやフランチェスコの高度な楽曲に至るまで網羅しようとしていることです。
それではどのようなものが必要とされているのかというと、系統的な[methodical]教則シリーズで、それらは、親指を使った発音、親指と人指し指の交互の使用、リラックスした腕を意識させるためのゆっくりとした単旋律の課題、しっかりした発音、弦をまたいだフィゲタでの撥弦の最初の段階などを、ゆっくりと徹底的に網羅したものから始まり、次に2 音の和音を親指と人指し指、親指と中指、中指と人指し指で撥弦することなどにゆっくりと進んでいく、といったものです。2声のやさしい曲で上声に動きのあるパッセージになっているものが、今日までたくさん残されています。シリーズの第1 巻は4 声の和音程度でとどめるべきであり、あまり複雑な内容までは踏み込みません。しっかりとした計画のもとに作られたバイオリンやピアノの教則シリーズとまったく同じように、後の巻に進むほど徐々に難しい曲を載せるようにしていきます。リュートでは、例えばセーハを使う和音や、7コースの使用、左手のポジション移動などは後の巻に持って行くべきです。どんな初級ピアノ教本にも、リストの超絶技巧練習曲やプロコフィエフのピアノソナタが載っていないのとまったく同じ理由で、リュート教本のなかにダウランドのファンタジアやガリアードはありえません。
水準を高めるための唯一の方法が、私たちのしっかりとした教育方針を提起することであり、それは生徒が徐々に難しい作品に進んでいくことのできる、系統的なアプローチから始まります。難し過ぎる曲に取り組むのは、筋肉の無駄な緊張を生み、それを取り除くのにまた大変な思いをしなければなりません」

多くのリュート音楽が、今日の典型的なGチューニングのリュートより小さい楽器で演奏されていたようにも思えますが、当時の絵にはそのような小さい楽器はあまり描かれていません。当時の絵に描かれたリュートを弾く人々が、私たちと比べて体格が良かったわけではありません。
彼らは指のストレッチが良かったのか、あるいは声部の保持にあまり注意を向けなかったのか、だと思うのですが、何か見逃しているところはありますか?

「これは多くの異なった様相を示す、とても面白い質問です。
当時の奏者は今日の私たちよりも、ストレッチに関して長けていたと私は考えています。指の間の皮膚の伸縮性を落さないために全力をあげて練習をし、皮膚をフレキシブルに保つためのオイルも使い、指板の後ろから親指を離すことによって得られるストレッチの技法を発達させ、また低音部の押弦にも、その左手の親指を使いました。
オリジナルのルネサンスリュートのナットにおける弦幅は、ほとんどの場合非常に狭く、今日の標準である広い弦幅での場合よりも、弦を横切る方向でのストレッチは楽であると言えます。しかしながら、コース間がより狭くなるので、左手の指がとなりの弦に触れないように押さえるのがより難しくなる、という問題を生みます。このことで私には次の3 つの理由がうかびます。
1)彼らはより小ぶりで細い指を持っていたから。
2)彼らは左手の指の先端だけを使用して、まっすぐ上から弦を押さえていたから。
3)彼らは現代の私たちほどこまかい雑音やビリつきにに関して神経質でなかったから。
私はまた、彼らは私たちが今日しているほどには低音を保持していなかったのでは、とも感じています」

現代の楽器製作家が、オリジナルの再現にどれくらい迫ってきているとお思いですか?今日の弦のテクノロジーをどうお考えですか?

「私は現在作られている楽器は、絶えず前進していると信じています。私が弾いたオリジナルは、今のほとんどのリュートよりカラフルで複雑な音がしますが、私たちはそれに迫りつつあります。
私の考えるところでは、弦のテクノロジーが、依然として最も大きい問題です。ガットは、特に高音に関していまだに最高の音ですが、それらは今日のセントラルヒーティングされたエアコン付きの建物では使用していけません。現代の聴衆は、調弦の安定した楽器を期待し、コンサートではほんの少しの余計な調弦時間を許すのみでしょう。彼らは、ガットではほとんどいつも必要とされる、あらゆる楽曲の間での長い調弦を我慢してはくれません。
そして私は、説得力のある音を出すガットの低音弦(6~10コース)を、一度も聞いたことがありません。短か目の余韻は有用でも、ピッチの不明確さは大きな問題です。
ナイルガットはガットに近い音と感触をもっていて、かなりの前進です。願わくは、ガットの輝かしさと倍音の複雑さをあと少し加えることができれば、さらなる改良となり得ることでしょう」

あなたは録音ではガットを、ツアーではナイルガットを使用するのと聞きましたが、それは正確な情報ですか?弦を張り替えて、安定するのにはかなりの時間がかかりませんか?

「それは正解です。
ナイルガットは弾き込むのに長い時間がかかりますが、一度安定してしまえば、音色も良くチューニングも狂いません。張りたてはあまりパッとしない音がするので、1 日ほどの時間をとって、自由に振動し始めるのを待つ必要があります。
今日のコンサート会場の高輝度なスポットライトとセントラルヒーティングシステムが調弦を悪夢に陥れるので、ガットはコンサートのためには完全に論外です。そして現代の聴衆は、楽曲の間の長大な調弦時間が終るまで座して待つことを、まったく望んでいません。ガットは現時点でも最高の音ですが、コンサートで引き起こす問題を考えれば割りに合いません」

リュートの研究面や実践面で、あなたにとっての最大のミステリーは何ですか?

「第一に、プレクトラムから指までの変遷は、どのようにして進展したのだろうか?プレクトラムの奏者が、プレクトラムで多声部を演奏する方法を探っていた時期があったのだろうか?
第二に、フランチェスコ・ダ・ミラノは、フィンガーピックでどのように演奏したのだろうか? そして、なぜ2本指だけに?それらは親指と人指し指に付けられていたのか、中指と人指し指に付けられていたのか?それともオリジナル[アメリカの音楽学者、ジェシー・アン・オーウェンズが20 年ほど前に発見した、1524年に書かれた手紙による情報]の記述が不正確なのだろうか?プレクトラムと指の両方を使っていたルネサンス時代の奏者は、プレクトラムを走句を弾くため使い、和音を弾くときには中指と薬指を加えて弾いていたのだろうか?
第三に、右手の小指をブリッジのすぐ近くか、ブリッジを越えた向こう側に置いていた17 世紀の奏者は、どのようにして良い音を出していたのか?ブリッジのすぐ近くで弾けば、モダンなものであれ歴史的なものであれ、まず音量のない、薄っぺらで鼻にかかったような、良く響かない音がします。17世紀の奏者は私たちとは音に対する美意識が、本質的には異なっていたのだろうか? 彼らのリュートは異なった弦の張り方がされていたのだろうか?
私には数多くの答えのみつからない疑問がありますが、これらが解決したいと思うトップ3 です」

あなたは残されているタブラチュアの大部分に目を通されていると思いますが、まだ見たことのないもののなかでは、どのような曲を見たいとお思いですか?

「私はたくさんの残されているレパートリーを見てきましたが、それでもおそらく半分ほどでしょう。リュートのレパートリーは本当に膨大で、私たちがすべてを分類するにはあと何十年間もかかるでしょう」

楽器は何台お持ちで、そのなかでよく弾いている楽器は何ですか?

「20台ほどの楽器を持っていますが、もっともよく弾いている楽器は、ポール・トムソンの6 コースと8 コース、レイ・ナースの10 コース、ヘンドリック・ハーゼンフスのテオルボ、アンディ・ラザフォードのアーチリュート、イーヴォ・マゲリーニのバロックギター、それにアンディ・ラザフォードのバロックリュートです」

エレン、ポール、奥さんのクリステル。倉敷のカフェにて

エレン、ポール、奥さんのクリステル。倉敷のカフェにて

イーストマン音楽院での活動をお教え下さい。

「1976年以来、古楽アンサンブル(声楽と器楽)の指導、およびバロック演奏の実技コースで教えています。
この[2004年]9月からは、新たなリュートプログラムの最初の学生を受け入れることになっています。私は、歴史的撥弦楽器の課程で修士あるいは博士を目指す最大6 人の専攻学生を持つことができ、学生は、希望によりルネサンスかバロックリュートのどちらかを専攻することができますが、いずれの場合も通奏低音楽器(テオルボかアーチリュート、バロックギター)を弾くことを求められます。
最初に入学して来る学生は、ひとりがスペイン、ひとりがメキシコからで、ふたりとも優秀です。将来的には、あと何人かの学生を加えることを考えています」

パット・オブライエンとの共著で出る予定の、リュートのテクニックに関する本はどうなっているのですか?

「本当に遅れ遅れになっていて。私たちはふたりともこの十年本当に忙く、本をまとめる時間がまったく取れませんでした。来年[2005年]の秋には作業を再開させ、およそその1年後に終らせられるとの希望をもっています。ただし、私は永遠の楽観主義者です!」

最近の共演者をお教え下さい。

「最も共演の多いのは、エレン・ハーギスとトラジコメディア(スティーブン・スタッブス、エリン・ヘッドリー、アレックス・ワイマン)です」

スティーブン・スタッブスとの共同作業はどのようにして始まりましたか?どのようにして共同で指揮をしていますか?作業の分担をするのですか、または同時に同じグループをふたりで率いるのでしょうか?

「スティーブとは1989 年以来、一緒に活動しています。私たちは、ウィリアム・クリスティがルイジ・ロッシのオルフェオを指揮したときに一緒になり、いずれは自分達でそのような作品を指揮しようと決心しました。
私は1993 年にボストン古楽祭の芸術監督に就き、95 年からスティーブと共同して監督を務めています。私たちの考え方が、ちょうどうまく補い合うものなので、大きなプロジェクトを一緒に果たすのに非常に好く作用していると感じています。
私たちは、準備段階では仕事(演奏のための楽譜作りや台本の翻訳、リハーサルのスケジュール作り、演奏家と歌手との交渉など)を割り振り、キャスティングや総譜作り、作品解釈の決定などは共同で取り組みます。私たちはよく、どちらか片方が舞台監督とともにブロッキング[歌手の舞台上での動きを決める]リハーサルをこなしている間、もう一方がその場から何人かの歌手を連れて離れ個人指導をするといったような、平行したリハーサルをしています。ときにはひとりがコーラス、ひとりがオーケストラというような分担もします。
このような大型プロジェクトは、満足する結果を得ようとするなら、ひとりの人間の手には余ると言わざるを得ません。特に私たちがこの十年手掛けてきた、 300年以上も上演されて来なかったオペラのような未知の作品であればなおさらでしょう」

バンクーバー[2003年8月]のオペラ[モンテヴェルディのポッペアの戴冠]は、本当に贅沢な体験でした。すべてを一体化していくのは超人的な仕事であったに違いありません。[スティーブン・スタッブスとの]デュエットコンサートはさらなる楽しみでした。

「ありがとう!膨大な仕事量でしたが、素晴しい時間を過ごすことができました。私たちはその月のほとんどをオペラのために費やしていたので、デュエットプログラムは幾分急場しのぎの感もありました」

スティーブンとのコンサートを、あなたは非常に楽しんでいたように見えました。本番前に不安になるなどということは?

「私は、自分が大好きなことをしているし、他の人々と情熱を共有するのも大好きなので、通常、かなりリラックスして臨めます。いままで弾いたことのない難曲を始めてステージに乗せるときには、時折あがりますが。
最近初めて、バロックリュートでバッハとヴァイスのプログラムを弾きましたが、それはかなり神経をすり減らすものでした。そのコンサートも3 度目になると、だんだんなじんできた感じがして、私はリラックスして演奏に集中することができました。
聴衆に対してでなく、音楽に集中するなら、心配する理由はまったくありません」

ジェームス・リプトン[NHKBS2や総合テレビで不定期に放送されているインタビュー番組「アクターズ・スタジオ・インタビュー」(原題:Inside the Actors Studio )のホスト役]の質問の真似なのですが、音楽を除いて、あなたはどんな職業に就いてみたいとお思いですか?

「私は何らかの方法でワイン業界に関われれば、と願っています。ワインは私のもうひとつの(音楽と対をなす)情熱を傾けている対象で、そして、私にはワイン醸造所を所有し国際的なワインを作る多くの友人がいます。友人の醸造所を訪れ、ブドウ園や地下貯蔵室、それに試飲室で働くのが大好きなのです。
いつの日にか自分の小さなブドウ園を持ちたいと思っています。それは楽しみなことです。[佐藤]豊彦も同じアイディアを持っているはずで、どこかでリュート演奏と関連があるのに違いありません!!」

クラシックギターやピアノの奏者が暗譜で弾くのに対して、リュート奏者がそうしないのはなぜだと思いますか?

「いくつかの理由から、主流のクラシック音楽の世界では暗譜で弾く伝統をつねに維持しているのにもかかわらず、古楽器奏者は60年代の頃からずっと譜面を見ての演奏をしています。
私は、異なった調弦の楽器をいくつも演奏し始めた1976年頃までは、暗譜で弾いていました。調弦の違いからくる暗譜の困難さのため、それ以来、譜面を置くようになりました。ルネサンスリュートでG メージャーコードを思い浮かべ、G メージャーコードの指の形で押さえるのは簡単ですが、バロックリュートもあり、シターンも、バロックギターも、テオルボもあり等々、暗譜で通すのは難しいことになります。
ギタリストやピアニストは同じ音符がそのつど違った場所に位置することなど、心配する必要はありません。彼らはひとつのチューニングで演奏するだけなので、正確に記憶していくのはずっと簡単なことです」

日本と日本のリュート界の印象は?日本食はお好きですか?

「日本ではリュートがとても盛んであると思います。素晴らしい日本のリュート演奏家[複数]とリュート製作家[複数]がいて、日本のリュートの未来は明るいでしょう。また全国から愛好者を呼び集める、日本リュート協会の取り組みはとても重要であると思います。
私は和食と日本酒、とくに大吟醸が大好きです。日本への最初の旅行では機会のある限り、フグ、納豆、いろいろな種類の豆腐、そしてもちろん数々のすばらしい寿司を含む、あらゆる種類の食べ物を試しました。それから、大吟醸! それについてはもう話しましたっけ?
私は試した日本酒の微妙さと多様さに驚きの連続でした。朝食でも、私は洋式レストランを避けて、毎朝和食を選びました! 何と素晴らしい食文化!」

息子さんは音楽への関心を示していますか?

「息子と娘の両方とも、音楽が大好きです。
息子は、すべてのスタイルのクラシック音楽に対して卓越した耳を持っていて、またピアノで即興演奏をするのも大好きです。
娘は歌うことの方に興味を持っています。私は彼女には本当の可能性があると思いますが、彼女自身は本気で小説家になりたがっています」

今後のご予定は?

「この[2004 年]夏にはヨーロッパ各地での多くのコンサート、ヨハン・ゲオルク・コンラーディの美しいオペラ『アリアドネ』の録音、それから10月にはオール・ダニエル・バチェラーのCDの録音があります。そののち05 年の春にはバッハのCD、つづいてボストン古楽祭ではマッテゾンの1710年のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の世界初演。その公演はタングルウッド、カリフォルニア、カンザスシティーを巡り、そしてオランダ、ドイツ、フィンランド、ロシアに行きます」

未来の予想として何かありますか?

「私はリュート演奏の基準が、今後十年間上昇し続けると予測し、そして、最も難しいルネサンスとバロックリュートの曲の素晴らしい演奏が、ごく普通に聴けるようになると予測しています。
私の見るところ、大きな問題は、十年後にクラシック音楽の聴衆がまだ存在しているかどうか、という点にあります。ふたつの大きなことを、熱心な公衆が確実に継続していくために変革しなければなりません。
1)コンサートは、より心躍り、より面白く、退屈で堅苦しいものであってはならない。
2)違法なファイル交換を阻止し、より広いマーケットに届くように廉価なCDを生産することにより、CD のマーケットを再生させなければならない。
CD小売り店が倒産し続け、CD会社がクラシック音楽を製作を止めるか、または大幅に削減(ソニー、ドイツ・グラモフォン、フィリップス、EMIなどのように)するならば、音楽家は、クラシック音楽を演奏して生計を立てることができなくなります。しかし、これらの問題が解決されて、これからの十年間、傑出した若い音楽家の輝かしい成果を聴くことになるだろう、と私は確信しています」

どうもありがとうございました。
オリジナル英文へのリンク:エドワード・ダーブロウ氏のサイト